2017年8月9日02:08:48/カテゴリー:Private
小学6年現在の評価
成長の早い子が評価を受け、それが全てですと勘違いをする本人と保護者
それがたった数年で・・・
箸にも棒にも掛からない選手が評価を受ける
評価自体が、ひっくり返る
そう言う選手には、必ずと言って良いが、泥臭い努力が付き物である。
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2017年8月7日23:24:39/カテゴリー:Private
サッカー指導者・小嶺忠敏さん(1)日本一のチームのつくり方
◆夢を追う
九州で高校サッカーといえば、黄と青の縦じまユニホームを思い浮かべる人は多いだろう。
長崎県立国見高校サッカー部は昭和62年から平成15年まで、全国高校選手権大会を計6回制覇した。
無名のサッカー部を、強豪校に育て上げたのが小嶺忠敏さん(72)だった。
今も「日本一のチームをつくる」と夢を追い、指導者としてグラウンドに立つ。
《昭和59年、国見高校に赴任した》
国見高校は島原半島の北部にあります。
当初、サッカー部は強豪校なんてレベルではありません。部員に「走ってこい」といったら、なんと歩くんです。
30人いた部員は、「小嶺は鍛えるから、怖い」と次々と辞めていきました。それでも少しずつ、ひたむきさが出てきました。
練習はいつも午後4時が始まりでした。私は10分前にはグラウンドに立ちます。
こちらが端然としていれば、生徒もピシッとします。
《就任翌年の昭和60年、早くも県の新人大会で優勝し、続く九州大会も制した》
公立高校は私学のように、特待生を全国からスカウトするのではありません。限界があります。
監督は料理人と同じです。目の前にある「材料」をいかに、うまく料理できるかが、問われます。
サッカーは不思議です。性格が横着なやつほど、「点取り屋」だったりします。
「えっ、こんなところでこんな仕事をするのか」。そんな意外性を秘めています。
逆に守備は、きちょうめんな性格の方が良い。
各自の持ち味を把握するのに毎日、グラウンドに出ました。選手仲間やコーチからも話を聞きます。部員の親と話をして、参考にすることもあります。
どこに「個性」があるかを見いだす。それが、監督の役目です。
特に1年生は「日替わり定食」のように、くるくると変わります。
コーチから「あの選手はすごいです」と報告が上がっても、3カ月後にはさっぱりというケースもあります。
だから、若いコーチには言うんです。
「メンバーを決めるのは結婚と同じだ。ずっと一緒に住んでいると、欠点が見えてくる。
新入生は最初、良いところばかりに目が行くが、そのうちに、気が弱いといった欠点が目立つようになる。事前に個々の持ち味を把握しなければならないんだ」
とはいえ、私もこれがちゃんとできるようになるまで、10年はかかりました。
《指導者の原点は、国見の前に赴任した島原商業高校にあった》
島原商は、私の母校なんです。
監督就任直後から、夢を抱きました。九州、いや日本一のチームをつくるのです。
当時の島原商は弱小校で、「夢物語」に聞こえたかもしれません。
それでも、夢を追ってみたいと思いました。
指導はスパルタでした。学校から往復12キロを走らせ、徹底して鍛えました。
身体をつくり、試合ではあたりの強さを生かして、ゴール前に長いボールをほうり込む。
そして力ずくでゴールを割る。この戦法は基本的に変わりません。
島原商は52年、インターハイで優勝しました。
《国見高は平成12年度に全国高校サッカー選手権、インターハイ、国体の3冠を達成した。これまでに、日本代表を含め、数多くの名選手を世に送り出した》
サッカー選手は何か1つ、光るものがあれば良いのです。その上で選手のレベルに応じた指導をすると、チームも伸びる。
例えば平山(相太選手)=ベガルタ仙台=なら、身長190センチという「高さ」とボールタッチの柔らかさがあった。それを自分の「宝」にするのです。
FC東京の大久保(嘉人選手)は、「ゴールを狙い、相手の裏を突く」。そんな動物的な感覚を持っていました。
しかも2人とも素直で、周りの人とうまくやれる。各自のセールスポイントをつなぎ合わせて育てるようにしました。
集まった選手でチームを作るのです。
チームの形は国見も毎年、違っていました。3年生が卒業した後、3カ月かけて、どんなプレースタイルでいくかを考え、新チームにしていく。
その際、「今はパスサッカーがはやりだから、パスサッカーをしよう」などと、信念がないのは、だめです。
信念は変わりませんが、指導法は次第に変わりました。
我慢し、長い目で選手をみるようにしました。
「国見は毎日必ず10キロ以上走らせている。軍隊だ」と言われました。
島原商時代はそうでしたが、国見では週に1回、持久走と筋力トレーニングを行うスタイルでした。
「うまくなりたければ、全て教えてもらおうなんてダメだ。1から3は教える。でも、4から10は、自分の頭で考え、自分で練習するしかない。はい上がってこい」。こう口酸っぱく言うようになりました。
こうした練習方法を広めようと、フットボールアカデミーも作りました。教え子が指導し、地域のサッカーファンも、増えていきました。
《平成12年に国見高校校長に就任するまで、足かけ32年間、教壇に立った》
社会科の教諭でした。授業開始の3分前には教室のそばに立ち、チャイムが鳴った瞬間、教室に入ります。授業終了の合図が鳴ると、たとえ授業内容が途中であっても、ぱっと終わるようにしました。
「1日24時間、誰にでも平等に与えられている。時間は大切にしなさい」。生徒には日頃から、こう教えました。
また、サッカー以前に、人間教育に重きを置きました。
高校は、この先の人生を生きるための基盤を固める時期です。知育、徳育、体育のバランスが大切です。
特に、徳育では「挨拶」「返事」「後始末」を身につけさせるように、気を配りました。生徒の普段の生活を改善するのです。
生徒が変われば、教師の雰囲気も「自分たちも甘えてはいられない」と変わります。
そうして近所の評判が良くなれば、学校に生徒も部員も集まります。実績もついてくる。
「ここの高校はこんなに活躍しているんだ」。学校が地域の誇りとなり、認められるようになるのです。
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2017年8月5日23:48:40/カテゴリー:Private
日本フットボール界に多くの卒業生がいる、国士舘大学サッカー部。
その国士舘大学サッカー部も創部61年となる。
その初代キャプテンであり、国士舘大学理事長でもある、サッカー部監督大澤先生。
「最初は2人しか部員がいなくて、ジャンケンでパーを出して勝ったから今がある」
そんな事があったからだろう、現役時代によく言われたのが
「おい阿久津、ジャンケンだろうが勝負事は絶対に負けるな!」
全日本少年サッカーをスタートさせた人
関東大学リーグにJR東日本を付けた人
トレセンという名前を日本で広めた人
挙げたらきりがない
そんな、大きな方の元で学んだ同士たちが日本全国におり
そんな、同士の方は国士舘大学という事だけで血縁のように助けてくれる
今、自分もその同士たちに助けてもらってます。
「大学の友は、人生の宝です」
入学時、いきなり酔っ払った先輩に言わされた言葉です。
今は、その言葉を実感してます。
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2017年8月2日19:13:46/カテゴリー:Private
俗に言う、ブラックですね。
それが難しと育成の彼らには寄り添えない。
だって、親は寄り添う時間気にしないしね。
以下、静学ブログより
指導者の何たるかは、
「才能高きものもそうでないものも、たしかに一人ひとりの心に激しく灯をともせるか否かだ」ということ。
井田と静学の指導はそれを体現する作業だ。
昔、三浦泰年氏が、非常識な4部練や朝練習で挑発され
「あのオヤジより絶対早く朝練に行く」
という意地で監督が来る前に暗いうちから練習に行っていたという話をしていた。
そしてあの理不尽が僕を育てたといっていたのを聞いた。
「人の心を燃やせないヤツに、人を育てたりすることなんて出来やしない。
信念もって性根すえて理不尽を子供に強要できぬ大人には若者を指導することは出来ない。」
自分の時間が気になるようなサラリーマン指導者などいらねーぞ。
熱や信念があるかどうかは一挙一頭足で選手は正しく理解する。
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